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渋沢栄一って何した人?功績から新紙幣に起用された理由を考えよう

#渋沢栄一


渋沢栄一肖像 深谷市所蔵

新紙幣一万円札に起用された渋沢栄一ですが、「名前は聞いたことあるけど実際何した人かよく知らない!」という方も多いのでは無いでしょうか。
そこで今回は『近代日本経済の父』と称されるその功績をまとめてみました。

年表

出来事・功績
1840年 3月16日、現在の埼玉県深谷市血洗島で生まれる。
1846年 6歳で漢字の学習を始める。
1847年 漢学者尾高惇忠のもとで学び始める。
1854年 藍玉の商売を手伝い始める。
1856年 御用金事件を経験し、階級制度の是正と幕府打倒を志すようになる。
1863年 高崎城襲撃と横浜焼き討ち計画を立てるが中止。
1864年 一橋慶喜の家臣として仕官。
1867年 パリ万国博覧会に幕府の代表団の一員として参加。
1868年 帰国し、徳川昭武の帰国を助ける。
1869年 「商法会所」を設立。
1869年 民部省兼大蔵省の租税正に任命される。
1873年 大蔵省を去り、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)を設立。
1873年 抄紙会社(現在の王子ホールディングス)を設立。
1875年 商法講習所(現在の一橋大学)を設立。
1878年 東京株式取引所(現在の東京証券取引所)を設立。
1878年 東京商工会議所を設立。
1916年 67歳で第一線を退くが、企業や公共団体の相談役として活動を続ける。
1931年11月11日 永眠。
2024年7月3日 渋沢栄一の肖像が新紙幣の一万円札に採用される。

 

生い立ち

渋沢栄一は、1840年3月16日に、現在の埼玉県深谷市血洗島で生まれました。彼の家は農家であり、父・渋沢市郎右衛門、母・エイの元で育ちました。渋沢家は農業のほかに藍玉の製造と販売も行っており、幼い頃から商売の基礎を学ぶ環境にありました。

幼少期と学びの道 儒教と家業への影響

父の市郎右衛門は教育のため、栄一が6歳の時から漢字を学習させ、7歳になる頃には漢学者である尾高惇忠(後に従兄弟から養子に入った尾高新五郎)のもと『通俗三国志』や『里見八犬伝』など読みやすい書物から読解力を磨き、儒教の経書である四書五経に至るまで様々な書物を読み学びました。

尾高惇忠との学びの場は栄一の思想と学問の基盤を築いていき、特に儒教の教えに深く影響を受けました。

栄一は14歳になる頃から、勉学と同時に家業である藍玉の商売を手伝うようになりました。16歳になる頃には得意先を回るような(今で言うルート営業)もこなし、渋沢家の事業は繁栄の一途をたどり、質屋や雑貨屋も営むようになっていきました。
父の市郎右衛門は名主見習いになり、頭角を表すようになりました。

そんな中一つの事件が起こります。

代官の御用金要求

当時、幕府はしばしば「御用金」という名目で、富裕な領民に対して金銭を提供させるよう領主に命じていました。
幕末期の日本は財政難に陥っており、幕府は外国からの圧力に対処するための軍備増強や、天災による飢饉対策に多額の資金を必要としていました。
これらの出費を賄うために、幕府は臨時の資金調達として御用金を徴収することが頻繁に行われていました。

1856年、栄一が16歳の時に岡部藩の代官が父である渋沢市郎右衛門を陣屋へ呼び出し、都合の悪かった父の代役で栄一が出頭しました。
代官は渋沢家に対し500両もの御用金を要求してきたのです。
この理不尽な要求に対して父の代役である栄一は「一度持ち帰って相談したい」という旨を役人に申し伝えますが、代官の態度は一変。栄一に対して嘲笑し罵倒した挙げ句「この場で了承するように」と命じます。

階級社会だった当時の日本では、代官に歯向かうことは身分上不相応とされていましたが、この代官の言動に栄一は憤慨し口論となります。
結果的に父である渋沢市郎右衛門が500両を支払う事となるのですが、この一件により栄一は当時の階級制度(士・農・工・商)を是正し、やがて腐敗した幕府を自らが武士となり変えることを志すようになります。

尊王攘夷運動

渋沢栄一と尊王攘夷の関係を理解するためには、当時の日本が置かれている状況を理解する必要があります。

1853年、ペリー提督が4隻の黒船を率いて浦賀に来航し、日本に開国と通商を求めました。

翌年1854年、幕府はペリーとの間に日米和親条約を締結し下田と函館が開港され、アメリカとの貿易が開始されました。この条約締結は、幕府が外国の圧力に屈したと見なされ、国内での不満が高まりました。

1858年には、さらなる開国を進めるために日米修好通商条約が締結されました。この条約では、横浜、長崎、新潟、神戸が開港され、外国人の居住と貿易が認められました。この条約の締結に際して、幕府は天皇の勅許(正式な許可)を得ずに独断で進めました。

幕府が天皇の勅許を得ずに独断で条約を締結したことは、天皇の権威を軽んじる行為と受け取られました。これにより、幕府に対する不信感が増大し、天皇の権威を尊重する尊皇派と、外国勢力を排除しようとする攘夷派が結びつきました。尊皇攘夷運動は、このような背景のもとで急速に広がりました。

歌川国輝 (3代目), Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

渋沢栄一は幼少期より儒教の教えを学んでいます。
儒教は「忠孝」を強く重んじるのですが、この儒教の教えに基づく忠誠心が栄一を尊皇攘夷運動へと傾倒していく基盤となったと考えられています。

「忠」とは君主に対する忠義、「孝」とは親に対する孝行を意味します。この教えは、天皇を尊ぶ尊皇思想と、外国勢力を排除する攘夷思想に結びつきました。

高崎城襲撃計画・横浜焼き討ち計画

1863年、渋沢栄一と尾高惇忠は、高崎城襲撃と横浜焼き討ちを計画します。
高崎城襲撃は幕府の権力を弱体化させるための戦略的なもの、横浜焼き討ちは横浜の外国人居留地を焼き討ちし、外国人を恐怖に陥れることで攘夷(外国勢力の排除)を実現することでした。
横浜焼き討ち計画が進行する中で、仲間の一人である尾高長七郎が反対しました。彼は、この計画が無謀であり、多くの無関係な人々に被害をもたらす可能性があると主張しました。長七郎の説得により、激しい議論の末、渋沢栄一と他の志士たちは計画の中止を決定しました。
高崎城襲撃も同様に実行に至る前に発覚し、中止されました。計画が漏洩した原因や具体的な経緯は明らかではありません。しかし、この事件を通じて渋沢栄一の反幕府活動は注目を集めることになりました。

これら2つの計画がどちらも実行に至らず中止された事を通じて、渋沢栄一は自らの行動を見つめ直す機会を得ます。

徳川家との関係

尾高惇忠は一橋家の学問所「昌平坂学問所」での学びを通じて、一橋慶喜(後の徳川慶喜)に近い存在となっていました。1863年の高崎城襲撃計画と横浜焼き討ち計画が中止された後、尾高惇忠の紹介により、渋沢栄一は一橋慶喜の家臣として仕官しました。一橋慶喜は幕末の改革派であり、渋沢の能力を見込んで彼を家臣として迎え入れました。この転機が渋沢栄一の人生に大きな影響を与えました。

パリ万国博覧会

1866年8月29日(慶応2年7月22日)に14代将軍徳川家茂が亡くなり、その後、1867年1月10日(慶応2年12月5日)に一橋慶喜が15代将軍に就任し徳川慶喜となりました。
これにより仕えていた渋沢は、わずか4年で幕臣となったのです。

1867年 徳川慶喜は渋沢栄一を信頼していたことで、弟である徳川昭武が団長を務める幕府の代表団の一員としてフランスのパリで開催される万国博覧会への派遣に推薦します。

しかし、渋沢は葛藤を抱えていました。倒幕を志していた彼が結果的に徳川家に仕官し、慶喜が将軍となることで幕臣となったことに強い自己矛盾を感じていたのです。さらに、幕府が滅びる運命にあると確信しながら、その延命のために働く立場になってしまったことに苦しみました。それは農民に戻ることさえ考えたほどの葛藤だったようです。

そんな中、幕臣としての任務をこなしながら、パリ万博使節団の一員に選ばれた際、渋沢は「喜んでフランスに行かせて頂きます」と二つ返事で承諾しました。これが彼の運命を大きく変える瞬間となり、「もう攘夷論者ではなく、外国のことを知りたい」と答え、徳川昭武の洋行に全力を尽くすことを誓ったのです。

徳川民部大輔殿以下仏国派遣の一行
(慶応3年4月於仏国マルセイユ港撮影)

不明Unknown author, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

 (後列左から)渋沢栄一、山内文次郎、高松凌雲、木村宗蔵、服部潤次郎、皆川源吾、加治権三郎、大井六郎左衛門、三輪端蔵、杉浦愛蔵、山内六三郎(堤雲)、生島孫太郎、日比野清作、箕作貞一郎。 (前列左から)英国公使館付通弁アレキサンドル・ホン・シーボルト、保科俊太郎、山高石見守(信離)、伊坂泉太郎、徳川民部大輔昭武、菊地平八郎、向山隼人正(黄村)、田辺太一(蓮舟)、仏国領事レヲン・ジユリー。

 

渋沢栄一はパリ万国博覧会を通じ、近代的なパリの都市の様子や博覧会で展示された最新の機械や技術、そして経済制度などの多くの知見と経験を得ました。

例えば巨大な楕円形のパビリオン内で展示された最新の機械工業製品や蒸気動力の利用、そしてパリ市内の上下水道やガス灯、高層建築などのインフラ設備に驚き、これらが後に日本の工業化や経済発展において大いに参考となっています​​。

また、渋沢は博覧会が単なる出品物の展示ではなく、国家間の競争と評価の場であることを実感しました。日本の出品物が欧米諸国と同等の評価を受けたことから、国際的な評価が国益につながることを理解しました​​。

渋沢はこの経験を通じて、日本の「官尊民卑」の風潮を改め、実業界での活動を通じて近代化に貢献する決意を固めました。

大政奉還

邨田丹陵, Tanryō Murata, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

万博後も渋沢栄一とともにフランスに滞在していた徳川昭武に公的書状として御用状が届きました。その内容は、兄である徳川慶喜が大政奉還を行い天皇に政権を返上したという驚きの内容でした。当時の日本は情勢が不安定で危険であったため、徳川昭武は依然としてフランスにとどまりました。

しかし、1868年4月27日に水戸藩主である徳川慶篤が亡くなったため、徳川昭武は水戸藩主を継ぐことになり、帰国を余儀なくされました。慶篤の長男である篤敬はまだ年少であったため、昭武が藩主の責務を担う必要があったのです。当時の日本は戊辰戦争の渦中にあり、昭武が帰国して藩を治めることは避けられない状況でした。

日本経済近代化への功績

渋沢栄一はフランス滞在中にフリュリ・エラールから金融の仕組みを学んでいました。幼少期から家業の藍玉の製造と販売に携わり経営の何たるかを肌で体感していた栄一は、フランスの先進的な銀行の業務や株式会社の設立要件、有価証券、株式取引所などの知識を吸収することができたのです。それらを日本に持ち帰り、経済近代化に役立てました。

商法会所の設立

渋沢栄一は徳川慶喜の退位後に幕府の旧臣たちが集まる駿府(現在の静岡市)へ移り住みました。駿府藩の勘定組頭の役職に就くことを依頼されましたが、封建的な体制下での役職に就くよりも、フランスで学んだ先進的な経済制度を日本に導入し、実業界で活動する方が日本の近代化に貢献できると考えたためこれを辞退し1869年に「商法会所」を設立しました。

この商法会所は、現在の株式会社の先駆けとなるもので、株を売って資金を集め、その利益を出資者に還元する仕組みでした。この合本制を取り入れることで、資金調達の新たな方法を日本に紹介し、商業活動の拡大に貢献しました。

民部省兼大蔵省へ出仕

渋沢栄一のこれまでの功績が評価され、大隈重信から大蔵省の役人になるように説得されました。大隈重信は佐賀藩の徴士・参与であり、民部大輔兼大蔵大輔(民部省と大蔵省両方の次官)として重要な役割を担っていました。彼は、渋沢の理財家としての才能とその誠実な性格を高く評価しており、新国家建設に必要な人材と見込んでいました。

渋沢が若い頃出会った岡部藩の代官は理不尽に御用金を取り立て、渋沢に不当な要求をした人物でしたが、大隈は誠実に渋沢の意見を聞き、尊敬をもって接しながら国家建設への熱意を伝えるて彼を説得しました。

渋沢は静岡に戻り商法会所(常平倉)の仕事を続けたいという気持ちを持っていましたが、大隈重信の熱意に打たれたことで静岡に戻る計画を取りやめ、新政府に出仕することに決めました。彼は、現在の国税庁長官にあたる民部省兼大蔵省の租税正(後に租税権助)に1869年に任命され、新国家建設に向けた財政改革と経済制度の整備に尽くすことになりました。

1873年、近代化のための多額の支出を求める大隈や各省と、政府の収入からみて過大な支出はできないとする井上と渋沢が対立した結果、渋沢は大蔵省を去ります。

第一国立銀行の設立

1873年、渋沢栄一は大蔵省を離れ自身の活躍の場を民間に移し、日本初の近代的な銀行である「第一国立銀行(現在のみずほ銀行)」を設立しました。
当時、日本には近代的な金融機関がなく、経済の発展を阻んでいました。

第一国立銀行は、渋沢が総監役として主導し、頭取には三井第13代当主三井八郎右衛門である三井高福と小野善助が就任しましたが、1874年に小野組が破綻したため、翌年1875年に渋沢が頭取に就任しました。当時銀行の紙幣には頭取名が刷られていましたが、頭取交代に伴って朱書きで渋沢の名が書き加えられました。

東京市日本橋区兜町に本店を構えた第一国立銀行は、横浜、大阪、神戸に支店を設け、全国的な金融ネットワークを形成し、日本の銀行業界の発展に寄与しました。

抄紙会社の設立

当時、日本は自国での紙幣製造技術が未熟であり、紙幣の印刷をドイツなどの外国に依存していました。渋沢栄一はこの依存から脱却し、国内で紙幣を製造できるようにするため、1873年に後の王子ホールディングスとなる抄紙会社を設立しました。

渋沢はイギリスから最新式の機械を購入し、イギリス人技術者フランク・チースメンを招きました。チースメンの指導のもと、工場の設計と建設が進められ、西洋風の煉瓦造りの建物が建設されました。これは当時の東京では非常に珍しく、多くの人々の注目を集めました。

しかし、期待とは裏腹に製造は当初うまくいかず、負債が増える一方でした。試行錯誤の末、やっとの思いで洋紙の製造技術を定着させることができました。ところが、いざこれからという時に政府は造幣工場を国が直接管轄する方針に変更しました。そのため、渋沢の将来的に造幣を担う会社とする計画は頓挫しました。

それでも、渋沢は新聞紙や書籍用紙などの製造を通じて事業を立て直し、抄紙会社は成功を収めました。この会社は後に王子製紙と改称され、現在の王子ホールディングスに至るまで日本の製紙業界をリードしています。

商法講習所の設立

次に渋沢栄一は後の日本を背負って立つ見識と知識を備えた実業人を育成することに目を向けます。渋沢はフランス滞在中に西洋の商業教育の重要性を痛感し、日本でも同様の教育機関が必要であると感じていました。

人材育成の場を設立するにあたって、渋沢の資金調達の手腕が発揮されます。
渋沢は三井財閥の三井高福や、三菱財閥の岩崎弥之助をはじめとする実業家に商法講習所の意義と、将来の日本経済に対する貢献をプレゼンし、多額の出資を獲得していきました。

十分な資金を調達した渋沢は1875年、後に第1次伊藤内閣で初代文部大臣となる森有礼とともに「商法講習所」を設立しました。東京銀座尾張町に私塾として開校されたこの学校は、その質の高い教育内容と渋沢の熱意により、多くの学生を集めるようになり、渋沢自身もビジネスの知識と経験を学生たちに伝え、彼らが実社会で活躍できるよう支援しました。
この「商法講習所」が後に一橋大学となります。


一橋大学 兼松講堂

商法講習所の設立は、日本における商業教育の基礎を築き、多くの優れたビジネスリーダーを輩出することになりました。

主要な卒業生

名前 役職 業績・影響
岩崎小弥太 三菱合資会社 社長 三菱グループの発展に大きく貢献
高橋是清 政治家、内閣総理大臣、日銀総裁 日本の金融政策および経済発展に重要な役割を果たした
雨宮敬次郎 第一銀行 頭取 日本の銀行業界の発展に寄与
浅野総一郎 日本郵船 重役 日本の海運業の発展に貢献

 

渋沢栄一の教育への貢献は、企業や金融機関の設立だけでなく、次世代のリーダー育成という形でも日本社会に大きな影響を与えました。

東京株式取引所と東京商工会議所の設立

1878年、渋沢栄一は日本の経済基盤を強化するため、現在の東京証券取引所である東京株式取引所と東京商工会議所を設立しました。当時、日本には組織的な株式市場がなく、渋沢は透明性の高い取引を目指して厳格なルールを導入しました。彼は全国を講演して回り、投資家の育成に努め、地方からも多くの投資家が集まりました。第一銀行の設立に携わった三井高福や、三菱財閥の岩崎弥之助が初期メンバーとして参加しました。

同年、渋沢は産業界の発展を促進するために東京商工会議所も設立しました。商工業者の利益を代表し、政府との連携を図る組織として機能し、渋沢自身も議長を務めることがありました。これらの設立により、日本の金融市場と商業界の近代化が進み、渋沢のビジョンと実行力が国家の成長を支えました。

さらに渋沢栄一を知る

渋沢栄一の代表的な功績を紹介しましたが、挙げればまだまだ枚挙にいとまがないと言うほどに、凄まじい功績がある人物です。

より渋沢栄一を知るためにおすすめしたい施設や書籍を紹介したいと思います。

渋沢栄一記念館

公式サイト:https://www.city.fukaya.saitama.jp/shibusawa_eiichi/kinenkan.html

素材提供 深谷市

様々な写真、資料に加えて「渋沢栄一アンドロイド講義」なるユニークな展示もあります。アンドロイド版渋沢栄一は深谷市出身の株式会社ドトールコーヒー名誉会長鳥羽博道氏の寄付により製作されたそうです。

著書:論語と算盤

渋沢栄一を代表する著書として、論語と算盤があります。本書は渋沢が76歳の時、1916年9月に初版が出版されました。論語とは渋沢が幼少期に学んだ儒教の経典である教書の一つで、朱子学における「四書」の一つです。

渋沢栄一は、商売には利益追求(算盤)と道徳(論語)の両立が不可欠であると本書で書いています。この考え方は、CSR(企業の社会的責任)やSDGs(持続可能な開発目標)と通じるもので、最近では社会的な課題解決と企業の利益を両立させるCSV(共通価値の創造)を各企業が目指しています。
100年以上前に現代に通じる考え方を持っていた渋沢栄一の真髄に迫れる本書を是非読んでみてください。

ただ、原書は流石に読むのが難しいので、解説書を読むことをおすすめします。

新紙幣に起用された理由

渋沢栄一は2024年7月3日に発行された新一万円札に起用されました。
本記事で功績の一部を紹介しましたが、正に『近代日本経済の父』の名に相応しい、とても一人の人物が成し遂げたとは思えない偉大な功績を残しています。

幕末志士から徳川家に仕え、渡欧の経験を日本に持ち帰り、株式会社の仕組みを作り、最初の銀行を作り、証券取引所を立ち上げ商工会を作り、大学を作り、500以上の会社設立に携わったこの功績からして、福沢諭吉の後継としては十二分な活躍だと言えるでしょう。

日本のタンス預金は発行済のお金の約半分である60兆円だと言われています。
今回の新紙幣発行によってこれらがすべて旧紙幣となることにより、タンス預金を動かして経済が活性化することが期待されますね。